死刑の是非

水 旧暦 10月5日 友引 甲子 六白金星 Martin, Martina V45 22554日目

日本の国から死刑をなくしようという気運が高まった時代がある。良い傾向ではないかと思っていたら、オウム真理教の事件が起きて、それを境に世の中のムードはやはり死刑は必要だろうと言う風に戻っていった。その意味でもあの事件はにくき出来事である。昨日、東京秋葉原の無差別殺傷事件の公判があって、遺族からは被告を死刑にして欲しいという意見陳述があった。ある日町を歩いていて、理由も無くいきなり殺されたものの親の身になってみれば、そのように陳述するのは無理からぬことである。しかし、この事件には被告本人の性悪に帰して問題を解決するだけではすまされない不気味さが潜んでいる。悪かったやつを処罰しても、似たような悪事が次から次へと連鎖的に起こるような嫌な気配がある。かつてはごく特殊なケースであるとして例外的に扱われた悪事が、いまや一般性を帯びた犯罪に広がってきていることが恐ろしい。それだからこそ死刑を求め、刑罰の強化によって、犯罪の広がりを防ぐべきでないかと言う意見もあろう。しかし、被告らは、こうすればこうなるという単純な想像を働かせるだけの力さえ持っていないのである。そのようなものどもを相手に刑罰の強化をはかってはたして社会の状態が良くなっていくものであろうか。愛されること無く育ってしまったものたちを、ただ死刑台へ運んでやれば、社会は良くなるのだろうか。