エンリコ・フェルミの場合

金 旧暦 10月25日 仏滅 庚寅 七赤金星 Daniel Daniela V50 22221日目

エンリコ・フェルミはイタリアの物理学者である。1938年にノーベル物理学賞を受賞した。今の感覚からすると、ノーベル賞を受賞することはまぶしいことであり、感涙にむせるほどの喜びの賞であるかもしれないが、それは現代という時代が平和であるからである。エンリコ・フェルミほど受賞するのに葛藤に苦しんだ人は居ないと思う。ドイツではナチスが台頭し、ノーベル賞受賞禁止のお触れが出た。自由な研究が出来ない雰囲気はイタリアをも覆っていた。もはや自由な研究を続ける為にはアメリカへでも行くしかないが簡単には国外へ出ることが出来ない。そこへノーベル賞受賞の知らせが届く。受賞のために国外に出る機会を得たフェルミはイタリアへ戻ることはなかった。そのままアメリカへ亡命したのである。祖国に待つ数多くの研究仲間たちを裏切るような行為は辛かったろうと思う。クリスマスと正月を海の上で過ごし、アメリカに着いたのは1939年1月2日であった。年が明けるとすぐにオットー・ハーンが大きな新発見をしたということを手紙で知る。フェルミは、もし核分裂が起きるのであれば、その際には大きなエネルギーが放出されるであろうし、そうなれば余分になった中性子が何個か放出されるであろうということを、直ちに予想した。そして連鎖反応の可能性はそのまま新型爆弾の可能性を示唆するものであった。この年の10月12日にはアインシュタインルーズベルト大統領にあてて有名な手紙を書いている。そうして日本人にとっては忌まわしいマンハッタン計画が極秘裏に開始されることになった。日独伊三国軍事同盟は1940年9月27日。エンリコ・フェルミはイタリア出身の敵性外国人でありながら最重要国家機密のリーダーとなっていく。ここにも大きな葛藤があったに違いない。ルーズベルト大統領は計画の行く末を見ないまま、1945年4月12日に亡くなった。当時副大統領であったトルーマンさえ、この時まで、この計画の存在を知らなかったという話も聞いたことがある。その3ヵ月後の7月16日未明、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠に人類史上初の原爆実験の光が走る。やがて米議会で疑惑の巨額の行方が問題になり始めた。そして、その追及をかわす為に、アメリカは何としても急ぎに急いでどこかに原爆を落とさなければならなかった。こんなものを作っていたからさと万人に分かってもらえれば議会の証言など不要になるからである。そうしてトルーマンはこの新型爆弾の使用を決定し、1945年8月6日8時16分に広島が犠牲になった。ノーベル賞の話から、エンリコ・フェルミの場合を書き始めたが、変な展開になってしまった。