体罰の是非

日 旧暦 12月 16日 先負 丙辰 二黒土星 満月12:27JST Jan Jannike 1e. trettonde. V2 21887日目 1.0℃

スウェーデンでも日本でも、体罰はいけないことになっている。そのことに異論をはさむ余地はないのであるが、子供時代に先生に叩かれたわが体験をもとに言うなら、ある程度の体罰はやむを得ない、むしろ教育的効果がある場合もあるのではないかと僕は心のどこかで思っている。今は子供に対して手を振り上げようものなら新聞沙汰になって大変なことになる。子供の体格も立派であるし、先生は危ないことに近づこうとせず、勇気を持ってしかることもしないのではないか。もし実際にそうであるならあまり良い傾向とはいえないように思う。僕の高校時代にはまだ先生が生徒を殴ることもあった。極端な例であるがこんなこともあった。体育の時間、バレーボールの練習であったが、終了間際にボールを集めて籠にしまう時が来た。遠いところから投げ入れたりせずにひとつずつていねいにきちんとしまえ、と言われていたのであるが、級友のひとりが、ちょっと離れたところからボールを投げ入れた、、、ようにその先生の目には見えた。直ちに先生はその友をしかった。けれども友は「私は投げ入れませんでした」と答えた。それが教師の怒りを買い、生徒を殴ったのである。それでも友は「自分のしていないことはしていない」と言い張ったものだから、「俺は見たんだ」というパンチの応酬と否定の弁明とが数回繰り返され、教師の目はいよいよ激しい怒りで真赤になった。その時に立ち会った僕の感想から言えば、友の言うことの方に理があるように思えたのである。「審判と言えども誤審はあるかもしれぬ。たとい誤審であっても黙って従うのがスポーツマンである」ということを先生は教えたかったのかもしれない。けれどもそれにしてもあの怒り方はどうか、と僕は納得がいかなかった。そしてその時僕は、自分も打たれたような強い衝撃を受けた。その思い出は以来ずっと消えることがなかった。今でもその友のことを思い出すたびにあの事件を思い出す。間もなくクラス替えがあり、彼とは別のクラスになった。彼は常に成績優秀で、僕の学業レベルからはうんと遠い人であったので、卒業してからも年賀状をやり取りするような間柄では無かった。けれども、僕の心の中では印象に残る人であった。去年の暮れに東京で昔の友達数人に会った時、彼は最近病死したという話を聞いた。今日は体罰の是非について書こうとしたのであるが、若くして逝った遠い友の思い出話になってしまった。