大阪の火事

木 旧暦9月4日 赤口 乙亥 四緑木星 Ludvig Love V40 21786日目

大阪の個室ビデオ店が火事になって15人が死亡した。原因は放火であり、その犯人の動機は「生きていくのが嫌になった」ことであるという。どうしてこういう事件が起きるのか、理解に苦しむのであるが、これからの対策として、警戒を強化する、というようなことでは対症療法でしかなく、効果的な対策とはいえない。この事件にも、最近よく起きる通り魔事件にも、あるいは小中高校生のいじめ事件にも、さらに大きくは世界的なテロ事件にも、どこか底に流れる共通性があるように思えてならない。その共通性とは何かと言えば、人間の社会性の欠如というか、コミュニケーション能力の不在ということである。昔はよく「話せば分かる」と言われたものだ。この頃、こういう言葉を聞くことはまれになったのではないだろうか。誰もが、「そんなこと話したって通じっこないさ」と思っているのではないだろうか。あるいは声をかけることさえ怖いと思っているのではないだろうか。話は飛ぶが、日本に来て日本人と話していると、「こんな感じは日本人でなければ絶対通じないよな」というような科白を聞くことがあって、僕はその度に落ち着かなくなるのである。通じないと頭から信じ込んでいるのはあなただけであって、話してみれば、意外と通じるかもしれないよ、という思いが頭をもたげるのである。そもそも人間の考えることなんて、縄文時代の昔であっても、北極エスキモーであっても、今の僕達と対して変わらないのではないか、と僕は根底で思っている。もし、それでも通じないと言うのなら、それは表現技術の欠如にその原因があるだけではないかと思うのである。表現技術の未熟なものが事件を引き起こす。そうであってみれば、問題を解決するには、義務教育で、小さい頃から想像力と表現技術を見につける訓練をさせることである。そしてそういう訓練をするためには、まずもって国語教育の充実が求められる。表現技術の未熟な僕がこんなことを言うのは滑稽であることはよく自覚しているが、それでもあえてこんなことをブログに書くのは、正しい国語教育の復興こそが、日本の再生の道であると信じるからである。