会津の悲哀

火 旧暦10月4日 先勝 辛亥 四緑木星 Kristian, Krister V46 21462日目

磐越西線をさらに西に走ると今朝初冠雪したという磐梯山が見えた。会津若松で降りて、いよいよ会津の城下に入った。何とも優しい町である。徳川慶喜大政奉還し、江戸城無血開城した後で、何故薩長軍は執拗に会津を撃たなければならなかったのであろうか。誰よりも孝明帝の信任の厚かった京都守護職松平容保が、あろうことか賊軍の汚名を一方的に着せられ、恭順の意を示した後もなお、薩長軍は会津への攻撃の手を休めなかった。そして会津の悲劇が生まれた。薩長軍は、会津は自分よりも優れたものを持っていると心中密かに思い当たるものがあったに違いない。明治新政府に自信が無かったに違いないひとつの証拠は明治4年岩倉使節団随行して5人の少女をアメリカに留学させた時の人選にも見られる。選ばれた5人はいずれも旧幕府の賊軍の子であった。何故新政府側の子弟が一人も応募しなかったのであろうか。自信が無かったからである。開明の思想は賊軍の方が強かったとも言える。5人のうちのひとりは会津から出た山川捨松であった。山川健次郎の妹で、会津戦争では敵であった薩摩の大山巌と後に結婚することになる。またひとりは津田梅子であった。明治という時代は日本が驚くほど短期間に近代国家への変身を遂げた時代であった。アジア諸国には明治維新の日本に学べと考えるものもあるらしいが、学ぶべきは明治新政府指導力よりも、会津藩に代表されるような、江戸時代の日本各地の藩校の教育体系ではないかと僕には思われる。