スウェーデンのゴミ収集

僕の住んでゐるアパートでは建物のすぐ近くにゴミステーションがある。台所で出る生ゴミの他に分別ゴミとして、プラスチック、紙、新聞紙、金属、乾電池などの資源ゴミをそれぞれの箱にいつでも捨てることができる様になってゐる。だけど僕は、資源ゴミについては近くのスーパーの脇にあるもっと本格的な回収場所へ持って行く。そこは自動車でも持ち込むことができるのだが、僕はいつもその日出た資源ゴミを手に持って、散歩がてら捨てに行く。この時 Bower といふアプリを利用して、自分はどれだけの資源ゴミを出したかのデータが毎回残る様になってゐる。最近、資源ゴミを捨てに行ってとても気になることがある。それはいくつかの回収コンテナの置かれたすき間に、何の分別もせずに大量のゴミがドーンと捨てられてあることだ。こんなことは三年前にはなかったが、最近はとても頻繁に目にするようになった。誰かが始めると、「え?そんなのありなの?」と感じて真似する人がゐるのだらうか。ゴミを回収に来る係の人は、コンテナを空にして集めるだけなら大した手間でもなからうが、不法に捨てられたゴミを集めて処理するのはとても大変だらうなと僕は同情に絶えない。社会の秩序と云ふのはかういふ身近なところから崩れていくものなので、この問題は放っておけない気がする。でもどうすれば良いのだらう。このような横着なことをするのはきっと移民者であらうと人が思っても不思議ではない。だって移民者が少なかった時代にはこんなことはなかったのだから。そこから外国人を排斥しようと云ふ空気が強まる恐れは十分ある。監視カメラを置いて罰則を強化しようとする考へもあるかしれない。でも横着な人間はどこまでも横着で、良心と云ふものを全く持ち合はせない人種もゐるかもしれない。どんな人の心の奥にも良心はあるはずだと考へるのは甘いのかもしれない。顔の見えない相手の人間像として、そこまでスパンを広げて対応策を考へるのは容易なことではない。「対話が必要だ」と口で言ふのは簡単だが、対話といふものはお互ひの存在を最低限のところで敬ふ気持ちが無ければ成立しない。対話以上に大事なのはお互ひの信頼を回復させることだ。日本には「縁なき衆生は度し難し」と言ふ言葉もあるが、「縁なき衆生」を切り捨てて自分たちだけの世界を作ることができたらどんなに楽だらうと思ふ。しかし、それができないのが現代社会の難しいところだ。ゴミステーションの汚れ具合を見ればその社会の様子がわかってしまふ。そのような身近な問題が、ひいては戦争が絶えない地球的な世相とどこかで繋がってゐる。ガザやウクライナやイランに広がる戦争をやめさせるためのヒントは、意外に身近なところに潜んでゐるような気がする。僕はスウェーデンの社会がいつまでも住民に優しい住みやすい社会であってほしいと切に願ってゐる。

自分では植えた覚えがないのだが庭に花が咲いてゐる。AIに聞くと「ヤツシロソウ」といふさうである。