じゃないですか症候群

日 旧暦7月21日 先負 己亥 四緑木星 Justus, Justina 13e. tref. 21390日目 13.3℃

たまに日本に行くと20年前には使われていなかった言葉を耳にすることがある。「じゃないですか」という言い方もそのひとつである。一見丁寧表現に見えて本人は丁寧言葉で言っているつもりかもしれないが、考え直して欲しい。なぜかこの言葉をむやみに使う人を散見して、僕には耳障りである。「じゃないでしょうか」と言いかえて欲しい。みんなが知っているあの童謡、「あのこはだーれ、だれでしょね」と歌い始めて、おしまいのところで、「隣のみよちゃんじゃないですか」とやったら、詩情が消えてしまう。話し手にはみよちゃんであることが十分確かであるのに、表現する時は、「じゃないでしょか」と断定を幾分か避けて言う。そのことによって聞き手は、表現上の不確定性を越えて、幾分のユーモアもこめて、話し手の判断が確かなものであると伝わるのである。「じゃないでしょうか」という言い方はちっとも耳障りではない。であるから僕は日本の友達に次のことを提案したい。

提案1 「じゃないですか」と言いたい時は、「じゃないでしょうか」と言い換えてみる。

提案2 もしそれでは表現が合わないと思う時は、思い切って断定した言い方に変えてみる。

例 「あの人、朝早く来るじゃないですか」と言いそうになったら、「あの人は朝早く来られます」と断定する。自分で断定したいのにその判断の一部を聞き手に求めるのは卑怯というものである。どうしても聞き手の同意を求めたかったら

提案3 「ね」を活用する。「あの人は朝早く来られますね」と言えばよいのである。

そうしてそれでもやっぱり気がすまない時は

提案4 「じゃないかと私は思います」と言って欲しい。

さらにそれがかしこまり過ぎて状況に合わないなら、例えば、「いいぢゃないか 中村君」という具合に

提案5 「です」を省いてもらいたい。

現代の日本の世相はあまりにも殺伐としていて、残忍でおかしな犯罪も多い。そういう社会になってしまった原因は学校や家庭での国語教育の貧困にあるのではないかと思うからこんなことを書いた。「じゃないですか」が頻繁に使われる社会と変な犯罪の絶えない社会とはどこかでつながっているように思えてならない。

雲行きて 床にしばしの 秋日あり