何のためにはたらくか

土 旧暦 8月25 日 友引 甲戌 五黄土星 Stellan V41 25085 日目

石川啄木の「一握の砂」に「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」といふ歌がある。どんな仕事であったのかはよく知らないが、肉体労働を想像させる。この歌の陰には、「はたらけばお金がもらへる。お金があれば生活は楽になる。」といふ方程式が隠れてゐる。実際、人が生きていくためにはお金がかかる。「生きていくためには一所懸命働かなければならない」と小さい頃から叩き込まれて来た。「ひたひに汗して働く姿は尊い」これもまた真実である。それで心のどこかに「働く人は良い人で働かない人は悪い人」みたいなイメージがある。ところが技術が進歩すると、この半世紀の間の田植ゑや稲刈りの方法の変化を見てもわかる様に、人は肉体労働をしなくてもすむ様になった。この傾向はこれからもさらに劇的に進んで、自動車の運転も自動化されるといふし、もっと進んで、頭脳労働であっても全部機械がやってくれる時代が来るといふ。「はたらけばお金がもらへる」といふ方程式が成り立たない時代が来る。かと言って、はたらかなくても良い時代が来るわけではない。消費だけがある暮らしは危ないと思ふ。「何のためにはたらくか」が今よりも厳しく問はれる時代が来るのだと思ふ。「年収いくらのためにはたらく」といふ価値観が後退して、「お金にはならないけど、自分と愛する人のいのちを守るためにはたらく」ことがもっと価値を持つ時代が来るのではないかと思ふ。その様な価値の多様化に適応できる自由を持たねばなるまいと思ふ。