平家物語 巻第五 「五節之沙汰 4」

2024-05-19 (日)(令和6年甲辰)<旧暦 4 月 12 日>(先負 癸未 五黄土星) Pingstdagen Maj Majken    第 20 週 第 27490 日

 

昔、平将門の乱(天慶2年 939年)を鎮めようとして、平貞盛と田原藤太秀郷が選ばれて坂東へ赴いた。けれども将門は強く、簡単なことでは負けなかった。公卿たちは会議を開いて、援軍を送ることになった。選ばれたのは宇治民部卿忠文と清原滋藤で、軍監(ぐんけん)といふ副将軍の次の位を拝命して出陣した。駿河国清見ヶ関(静岡県清水市)に宿した夜、滋藤ははてしなく広がる海を見て「漁舟の火の影寒ふして浪を焼き、駅路の鈴の声夜山を過ぐ」といふ漢詩を朗々と口ずさんだ。それを聞いた忠文は感極まって泣いた。さうかうするうちに貞盛と秀郷は遂に将門を討ち取った。その敵の首を持って京にのぼる時、清見ヶ関で忠文と滋藤が率いる援軍と合流し、一緒に京にのぼった。貞盛と秀郷の功労を賞する時、忠文と滋藤にも賞を与へるべきかどうかについて会議があった。九条の右丞相師輔公(藤原師輔)は次の様に言った。「坂東へ打っ手を出したが、将門は簡単に負けなかったので、この人たちは命令を受けて関の東へ遠征したのだ。するとその時、朝敵が滅びたのだ。勧賞あって当然であらう」反論もあった。時の摂政関白小野宮殿(藤原実頼)は「「疑はしきはしてはいけない」と礼記の文にあります」と主張して、たうとう勧賞は行はれなかった。忠文は悔しくてたまらない。「小野宮殿のご子孫を奴隷にして見下してやらう。九条殿のご子孫にはいつの世までも守護神となりませう」と誓ひを立てて食べ物を絶って死んだ。それで九条殿のご子孫はめでたく栄へられたが、小野宮殿のご子孫は人もなく、今は絶え果てたといふことである。

夏至まであとひと月ほどか。お日様は随分北に沈む様になった。