平家物語 巻第四 「宮御最期 2」

2023-03-25 (土)(令和5年癸卯)<旧暦 2 月 4 日>(大安 壬午 七赤金星) Marie bebådelsedag 第 12 週 第 27073 日

 

これを見て、大将軍左兵衛督知盛は「わたせやわたせ」と下知された。それで二万八千余騎は、川に馬をうち入れて渡り出した。馬や人にせき止められて、あんなに早い宇治河の水が上流にとどこおった。たまにせきを漏れて流れてくる水があると、何者もこらえられないで流された。雑人どもは馬の下手にとりつきとりつき渡ったので、膝より上を濡らさずにすんだものも多くあった。どうしたことであらうか、伊賀・伊勢両国の官兵の馬いかだが押し破られて、六百余騎が流された。萌黄・火威・赤威、いろいろの鎧が浮いたり沈んだりして揺られる。その様子は、あたかも神なび山(奈良県生駒郡斑鳩町にある山で三室山とも呼ばれる)のもみじ葉の、峯の嵐にさそはれて、龍田河の秋の暮、いせきにかかって流れもやらずといった風情であった。その中に緋威の鎧を着た武者が三人、あじろ(川の浅瀬に竹を編んで魚をとるもの。網代)に流れかかってゆられるのを、伊豆守(源仲綱)が見て詠まれた。

伊勢武者はみなひおどしのよろひきて宇治の網代にかかりぬるかな

これらは三人とも伊勢国の住人で、名を黒田後平四郎、日野十郎、乙部弥七と言った(黒田、日野、乙部はともに伊勢国の地名)。このうち日野十郎は古つはものであった。弓の先端を岩の隙間にねじ立ててかきあがり、二人のものどもをも引き上げて助けたといふことである。

平家の多くの軍勢はみな宇治河を渡り終へ、平等院の門のうちへ入れかへ入れかへ戦った。このまぎれに、宮には南都へ先に行っていただいて、ここの現場は源三位入道の一類が残って敵の襲来を防ぐことになった。

散歩の時間をついつい後へのばして、雨になってしまった。