平家物語 巻第四 「橋合戰 5」

2023-02-21 (火)(令和5年癸卯)<旧暦 2 月 2 日>(先負 庚戌 二黒土星) Fettisdagen Hilding 第 8 週 第 27041 日

 

浄妙房が渡ったのを手本にして、三井寺の大衆・渡邊党は走り続き走り続き、我も我もと行桁を渡った。敵の首を取って帰るもの、武器を奪って帰るものがあるかと思へば、痛手を負って腹を掻き切り、河へ飛び入るものもあった。橋の上のいくさは火が出るほどの激しさとなった。これを見て平家の方の侍大将、上総守忠清は、大将軍(平知盛)の御前に参って、「あれをご覧ください。橋の上のいくさはかくも激しゅうございます。今は馬に乗って河を渡るべきでありませうが、おりふし五月雨のころで、水かさが増してをります。ここで無理に渡れば馬も人も多く失ってしまふことになりませう。淀・芋洗の方(宇治川桂川・木津川が集まって淀川に合流するあたり、大山崎のあたりか、昔はその辺りに(?)巨椋池といふ池があったか)へ向かふ方がよろしいでせう。淀の大渡を経て摂津河内に通じる道にまはりませう。」と申し上げた。すると下野國の住人、足利又太郎忠綱が申し出て異を唱へた。「淀・芋洗・河内路へは、天竺(インド)、震旦(中国)から武士を連れて来て向けさせるとでもいふのでせうか。さうではなくて他ならぬ我らこそがそこへ向かふのでありませう。今ここで目にかけた敵を討たずに、南都への進入を許してしまふなら、吉野・十津川の勢どもが馳せ集まって、大変なことになってしまひます。武蔵と上野の境に利根川と申す大河があります。秩父(武蔵國)と足利(上野國)は仲が悪くいつも喧嘩をしてをりましたが、ある時、大手は長井の渡場(埼玉県大里郡妻沼町長井)、搦手は故我杉の渡場(群馬県館林市杉の渡)を戦場として、上野國の住人新田入道(新田義重のことかと注にあり)は足利の仲間に入れられました。新田が杉の渡から寄せようとして用意してあった舟どもを秩父のものたちに壊されてしまって、そこで申したことには「ただいまここで渡さずは、長き弓矢の名折れとならう。水に溺れて死なば死ね。さあ行くぞ」と言って馬筏を作って渡してしまひました(馬筏といふのは騎馬のものが馬を泳がせて徒歩のものをひいて渡すこと)。坂東武者の習ひとして、敵を目前にして河を隔てたいくさに、淵(深いところ)は嫌だ、瀬(浅いところ)なら良いなどといふえり好みはありえない。この河の深さ早さ、利根川に比べてどれほどの劣り勝りがあるものか。続けや殿原」と言って真っ先に突進した。

Semla の日。僕には春の季語だ。生地のパンが日本のシュークリーム風だったらどんなに良いだらうと毎年思ふ。