平家物語「御産 2」

2021-09-25 (土)(令和3年辛丑)<旧暦 8 月 19 日> (友引 丙子 九紫火星) Tryggve 第 38 週 第 26523 日

 

もしも御産が無事にすむのなら、京都付近の有力な神社である八幡・平野・大原野などへ行啓いたしますと、願ひが立てられた(行啓とは太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太孫が外出すること)。全玄法印がその立願の文書を謹んで読み上げた。神社は伊勢大神宮をはじめとして二十余ヶ所、仏寺は東大寺興福寺をはじめとして十六ヶ所で経文が読まれた。その御誦経のお使ひは、中宮に出入りする家人の中で官位を持ったものがつとめた。平文(ひゃうもん)の狩衣に帯剣したものどもが、誦経のためのお布施、御剣、御衣を持って、次々に東の対より南庭をわたって西の中門に出る。その寝殿造の建物を巡る行列は立派で、見ものであった。

平重盛はちょっとしたことでは騒がないお人柄であったので、十分間を置いてから、長男の権亮少将(維盛)以下多くのものを先にやってから、色々の衣を四十領、銀剣七をお盆に乗せて、神へ奉納する馬十二頭を引いてその場に参上した。一条天皇の寛弘年間に、中宮彰子が御産の時に父の藤原道長が馬を献上した例がある。その例に倣って献上したものであった。重盛は中宮の兄である上に、清盛とは父子の間柄であるので、御馬を献上するのも道理である。この他に五條大納言邦綱卿が二頭の御馬を献上した。誠意が行き届いたと云ふことなのか、それともあの人はお金持ちだから身代が有り余ってのことなのか、と人々は言ひあった。なを伊勢より始めて、安芸の厳島に到るまで、七十余ヶ所へ神馬を立てられた。宮中でも、馬寮(馬のことを司る役所)の御馬に御幣をつけて数十頭を引き立てた。仁和寺の御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、三井寺の長吏圓惠法親王は金剛童子の法、そのほか、五大虚空蔵・六観音一字金輪・五壇法、六字加輪・八字文殊、普賢延命にいたるまで、ありとあらゆる仏様に祈りが続けられた。護摩の煙は御所中に満ち、鈴の音は雲をひびかし、その祈りを唱へる声は聞く人にはぞうっとするほどで、どのような物の怪であっても、向かって来られるような雰囲気ではなかった。さらに仏師達の住む町の高位の僧に命じて、御身等身の七仏薬師、ならびに五大尊の像を作り始めたのだった。

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森が近くにあるのはありがたい