終戦記念日

2021-08-15 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 7 月 8 日> 友引 乙未 五黄土星)Stella Estelle 第 32 週 第 26482 日

 

スマホGoogleニュースを見たら、全国戦没者追悼式の様子が出てゐたのでその一部始終を見た (YouTube)。 例年だと新聞記事などで天皇陛下のお言葉などを見る程度であるが、今年ははからずも実況中継録画を見ることができた。同時ではなかったけれども、それでもリモートで参加してゐる感じがあって良かった。慰霊の言葉は毎年同じことの繰り返しかもしれない。つまり、去年の原稿のコピペでも間に合ふ部分があるかもしれないのだが、そこに流されず慰霊の思ひを新たにする厳粛さが感じられて良かったと思ふ。会場となった日本武道館の飾り付けの雰囲気も良かった。あの中央の「全国戦没者之霊」と書かれた大きなお位牌は普段はどこに保管されてゐるのかな、靖国神社かもしれない。戦没者の霊を慰める行事はどの国にもあるのかもしれないが、日本のこの日の追悼式はまた格別であると思ふ。僕が日本人だからさう思ふだけかもしれないが、このような追悼行事の中に日本を強く感じる。だが、今年はもう76年目になる。いつまでも語り継がなければならないことはわかるが、遺族の方達も高齢化が進んだ。いつの年に、どのような議論を経て、この行事が取りやめになってしまふかなとふと思ふ。僕らが日清戦争日露戦争を歴史上の出来事とするように、若い人たちの間では、もはや太平洋戦争も教科書の記述に過ぎないのかもしれない。思へば、戦没者を追悼できるのは今の世が平和であるからだ。のっぴきならない災害に襲はれたりしたら追悼もできなくなる。平和な時代には誰が指導者になっても大同小異である。のっぴきならない状況では、もはや政府などあてにはできまい。「政府は国民の生命と財産を守る」と言はれることがあるが、それには「もし平和であれば」といふ仮定が隠されてゐる。本当はそんな非常時にこそ政府に頑張って欲しいのだが、無理な状況もあるかもしれない。この頃は、コロナで重症化した場合、各自が責任を持ちなさいと言はれてゐるように感じる。そんなところにもその兆しはあらはれてゐるように思ふ。

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庭のフサスグリの実を同居人は毎日採る。そんな季節になった。朝食のfilmjölkに混ぜて食べるのである。