中島敦の「李陵」

2021-08-05 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 6 月 27 日> (友引 乙酉 六白金星) Ulrik Alrik    第 31 週 第 26472 日

 

昨日のところまでで、平家物語を手で写し取る作業は巻第二までを終へた。その最後のところは「蘇武」であったが、何とも物足りない感じがあった。それで中島敦の「李陵」を改めて読み直した。この本は僕の生き方に非常に大きな影響を及ぼす本であることを改めて思った。感銘を受けるところはたくさんあるが、そのひとつは、自分に与へられる運命をどのように解釈するかといふことに関してである。人の運命は生まれた時から既に決まってゐるとは僕は思はないが、この本の中に出てくる次の言葉は味はい深い。「人間にはそれぞれその人間にふさはしい事件しか起こらない」。どんなに辛い目にあっても、自分はそれを受けるのにふさはしい人間であるからだと思ふことができるだろうか。どこか因果応報の考へにも通じるものがある。コロナ感染症の流行にあふのも、世界の各地で大洪水が起きるのも、山火事が起きるのも、異常気象の時代に生まれたのも、そのような出来事にあふことが自分にはふさはしいから、この世でそんな目にあふのだと考へるのである。もうひとつ感銘を受けたことを書くと、人に同情を寄せる時の態度についてである。李陵は忠臣であったけれども戦争で負けた。漢の武帝は怒った。官僚たちは恐れて、皆、李陵のことを悪く言った。ひとり司馬遷だけが、「李陵は国士であり、死闘を尽くした果てに敗れたのであるからその善戦ぶりを顕彰しなければならない」と発言して武帝の逆鱗に触れた。そして宮刑に処せられた。このことを後で伝へ聞いた李陵は、「俺のために気の毒なことをした」とも何とも思はなかった。彼は勝手に俺を弁護して処罰されただけだ、といふ態度であった。むろん司馬遷は何も見返りを期待して弁護したわけではない。もし僕がだれかを弁護することがあれば、その時はそのような心がけでなければならないといふことを思った。

 

f:id:sveski:20210806041113j:plain

花の形は紫陽花に近いが、色は白い。