平家物語「阿古屋の松 3」

2021-04-13 (火)(令和3年辛丑)<旧暦 3 月 2 日> (仏滅 辛卯 七赤金星) Artur Douglas   第 15 週 第 26358 日

 

二日後の安元3年(1177年)6月22日になって、丹波少将・成経は福原へ着いた。太政大臣清盛は、早速、瀬尾太郎兼康に命じて、成経を備中国へ流すことになった。兼康は付き添って行くのだが、道中は丹波少将をあれこれとお慰め申し上げた。といふのも、後になって、門脇宰相から何を言はれるか分からないことを恐れたからである。しかし、どんなお慰めの言葉も少将には慰めとなることはなかった。夜も昼も、ただ仏の御名を唱へて、父の藤原成親のことを嘆くばかりであった。

その成親は備前の児島に流されてある。あづかりの武士、難波次郎經遠は「ここはまだ港が近くて具合が悪かろう」と言って新大納言・成親を陸地へお移し申し上げた。備前・備中の両国の堺、庭瀬の郷有木の別所といふ山寺に置かれた。成経の配所である備中の瀬尾と備前の有木の別所との間は僅かに五十町に足らぬところである。丹波少将は有木の別所の方から吹いてくる風を、何と言っても懐かしく思はれたのでせう、兼康に「ここから、父大納言がおいでになるといふ備前の有木の別所まではどれくらいあるかね」とお聞きになった。兼康はありのままに答へてはまずいと思って、「片道十二、三日ほどでせうか」と答へた。その答へを聞いて丹波少将は考へ込んでしまった。涙をハラハラと流して言った。「日本は昔三十三国であったものが、中ごろ六十六国に分けられた。備前・備中・備後ももとは一国であった。また、あづまに聞こえる出羽・陸奥の両国も、昔は六十六郡が一国であったのだ。その時、このうちの十二郡が分けられて出羽国となったのだ。こんな話がある。藤原氏の実方中将が奥州に流されることがあった。実方中将は流されたついでに、この国の名所に阿古屋の松といふところがあるのを見てみたいと思ひ、国のうちをあちこちと尋ね歩いたが、誰も知らないので諦めて帰りかけた。すると、ひとりの老人に出会った。「もしやあなたはこの辺の土地の事情に詳しいご老人ではありませんか、この国に阿古屋の松といふ名所がある筈ですがご存知ありませんか」と聞いた。老人は「この国にはないよ。出羽国にならあるけどね」と答へた。「あなたは知らないだけですね。世は末になって、かつての名所であったのに、いまでは誰も見向きもしなくなったとみえる。」とむなしく過ぎ去ろうとすると、老人は中将の袖を引っ張って、「待ちなさい、もしかしてあなたの言ってゐるのは

みちのくのあこやの松に木(こ)がくれていづべき月のいでもやらぬか

といふ歌の心を訪ねて来られたのではありませんか。それは両国がまだ一国であった時によまれた歌ですよ。十二郡が分けられてからは出羽国にあるのです。」と説明を受けた。さういふことかと、実方中将は納得して、出羽国にわたり、阿古屋の松を見たといふことである。さて、筑紫の大宰府から都へ「にべ」といふ魚を献上する使ひがのぼるのに片道十五日と聞いてゐる。あなたは「片道十二、三日ほどでせうか、と言ったが、それだけの日数があったら、ここから鎮西へまでも行ってしまふではないか。備前・備中の間など、いくら遠いと言っても、せいぜい二、三日でないかね。本当は近いところを遠いところの様に言ふのは、大納言のおいでになるところを成経に知らせてはならないといふことなのだろう」と言って、それ以降は、丹波少将は、恋しかったけれども、もはや質問をしなかった。

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春になったが空気は冷たい