懐かしの長恨歌

2020-08-28 (金)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 10 日> (仏滅 癸卯 六白金星)Fatima Leila   第 35 週 第 26131 日

 

毎日漢詩を少しづつ手で写し取る作業をしてゐる。一日に4行程度しか写さない。僕は鉛筆で紙に書く。その同じ紙に同居人が筆ペンを使って書く。同居人の方がずっと字が上手いので、僕の字は小学生が書いた様で見劣りがする。僕は漢詩だけを写し取るが、同居人は漢詩を写し取った上に、日本語の読み下し文も書き写す。墨で字を書くのは心が落ち着くらしい。毎日短い時間だが、この様な作業をすることで、脳が衰へないために少しでも効果がありはしまいかと思って二人で続けてゐる。ところで、うっかり漢詩と書いてしまったが、この頃写してゐるのは唐詩である。岩波新書の「新唐詩選続編」に出て来る詩を写してゐる。前半の著者は吉川幸次郎、後半は桑原武夫。まづ、長恨歌が出て来た。「漢皇重色思傾國」で始まる。「漢皇」は漢の時代の皇帝を意味するから、玄宗皇帝と楊貴妃の物語には本当は合はないのである。しかし、当代の皇帝のすぐ先祖の私事を歌ふのに、あまりにも露はな言葉は慎むべきであるので、わざと遠い時代の出来事であった様に「漢皇」と言ったのである。それでも読者はこれは玄宗皇帝のことであると察するのである。と、その様な解説が書いてあった。さういへば、源氏物語の書き出しも「いづれの御時にか、、」と、どの帝の時代の物語であったかはっきりさせない技巧を取り入れてゐる。フィクションであっても一種の遠慮があって、長恨歌の冒頭と共通するものがあると思ふ。長恨歌は高校3年生の時に習った(漢文の先生は田中隆章先生といはれた)のだが、殆ど忘れてしまってゐる。ただ、所々、「あ、ここ覚えてる!」と記憶が蘇るところが何箇所かあって、とても懐かしい気がした。長恨歌を写し終へて、今は同じ白居易の「琵琶行」を写し始めたところである。

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夕方の散歩には上着を身につける様になった。