平家物語 「願立3」

2020-08-20 (木)(令和2年庚子)<旧暦 7 月 2 日> (友引 乙未 五黄土星) Bernhard Bernt Traditionell surströmmingspremiär   第 34 週 第 26123 日

 

巫女にのりうつった山王のご託宣はなほも続く。「この傷痕があまりにも残念であるので、どんなにお願ひされたとしても全部叶へる訳にはいかない。法花問答講をきっとやってくれるのなら、それに免じて3年の命を伸ばして進ぜよう。それを不足に思ふならそれ以上のことには力及ばず」と言って山王は巫女から上がってしまった。母上は立願のことを他の誰にも漏らさなかったのに、誰が漏らしたのだろうなどとはつゆ思はなかった。心に秘めてゐた願ひごと

がそのままご託宣になったので、心にしみて尊く思はれた。泣きながら申し上げることは、「たとえ一日かた時を伸ばしていただいてもありがたいことですのに、三年も伸ばしていただいて本当にありがたいことです」と言って山を下りて行った。急いで都へ戻り、殿下が御領として持ってゐた紀伊国の田中庄を八王子のお社へ寄進した。それからは今に至るまで法花問答講は毎日欠かさず行はれてゐるとのことである。そんなことがあって、後二条関白殿のお病は軽くなり、元の様に元気になられた。皆悦びあったが、3年の月日は夢の様に過ぎた。永長2年(1097)6月21日、関白殿のおぐしのきはに悪性のできものができてお休みになった。27日に御年38歳でお亡くなりになった。関白殿は気性のはげしさと云ひ、理性の強さと云ひ、あれほど優れた方でゐらっしゃったけれど、実際に危篤になると命が惜しくおなりになった。関白殿の死は本当に惜しまれた。40にもならないうちにお父上(師実)に先立たれるのは悲しいことであった。必ず父の方が先であるべきだといふ訳でもないが、生死の掟にしたがふ習ひは、あらゆる徳を完全に具へたお釈迦様でも、十地を極めた菩薩たちでも、力が及ばないのである。慈悲を具足した山王権現は、衆生を救ふ方便としてなさることであるから、罪を犯したものをお咎めになることもある。

 

ここまでが平家物語「願立」であるが、やや気になったのは、ウィキペディアの「藤原 師通」の項によれば、その没年は承徳3年(1099年) 6月28日になってゐて、平家物語の記述と2年違ってゐる。

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雲のさまにも秋の気配がある。