自分の内なる安全神話

2020-07-09 (木)(令和2年庚子)<旧暦 5 月 19 日> (大安 癸丑 二黒土星) Jörgen Örjan 第 28 週 第 26081 日

 

台風、水害、地震津波、火山噴火など、さなざまな自然災害が年を追って頻発する現状を見てゐると、いまにもっと過酷な大災害が起こってしまふのではないかと心配になる。2011年には東日本大震災に伴って福島原発事故が起きた。メルトダウンの後処理にはこれからまだ何十年もかかることになり、頭の重い話だ。あの時、ディーゼル発電機さへ稼働してくれてゐたらと返す返すも悔やまれる。ディーゼル発電機はなぜあんなに低い場所に設置されてゐたのだろうか。発電所の基本設計時に、ディーゼル発電機を建屋のもっと高いフロアーに、例へばタービン建屋の上階の主発電機の脇あたりに、設置する考へはなかったのかなと思ふ。津波の防潮堤の高さを何メートルにするべきだったかと云ふ議論より意味があると思ふ。アメリカから輸入した原発をその図面通りに、急げや急げで建設するからその様になったのだと思ふ。事故が起きてしまった後では、人々は口々に「彼らは安全神話に頼りきって、その前提から抜け出せなかった。バカなことだ」と批判するが、僕はその様な批判に同調できない。「あれだけ厳重な安全対策がなされてゐたにも拘らず事故が起きてしまったと云ふことは、同じ様な間違ひが自分の身の回りにも潜んでゐるのではあるまいか」と云ふ批判でなければならないと思ふのだ。例へば大都会のビルの電気設備は大抵地下に置かれてゐると思ふが、洪水の時など果たしてそれで大丈夫かなと思ったりする。都心では新しい高層ビルがどんどん建設されるが、電気設備は高層ビルの心臓部だ。隣接するいくつかの高層ビルの電源を融通し合へる電源管理棟の様なものがあるのかなと思ってしまふ。

f:id:sveski:20200710052710j:plain

今日の散歩ではハリネズミに会った。