平家物語「二代の后」

2020-05-29 (金)(令和2年庚子)<旧暦閏 4 月 7 日> (仏滅 壬申 九紫火星) Yvonne Jeanette veterandagen 第 22 週 第 26040 日

 

世の中には、悲しみや苦しみをどんなに胸の奥深くにおし包んで生きてゐる人がゐるかは分からない。だから、本当の苦しみの淵を知らない人間が、幸福について不用意に何かを書くことは躊躇はれる。しかし、敢へてそのことに目を瞑って書くとすれば、僕は、それぞれの人が「自分は幸せである」と自覚できることはこの社会を良くするために必須のことではないかと思ふ。「自分は幸せである」と自覚できないと、自身が不幸であるばかりでなく、社会をも不幸に巻き込むものではないかと思ふ。

世が乱れる時はそれを予兆する様な出来事がいくつか起きることがある。そのひとつひとつは相互に関係が無いように見えるのだが、深いところで繋がってゐるのかもしれない。久寿2年(1155年)に近衛天皇が17歳の若さでお亡くなりになった。鳥羽院のご意向により後白河天皇が即位された。この後、その兄の崇徳院は遠ざけられる。翌年(保元元年)、鳥羽院崩御の後は兵革うちつづく世になった。まづ、保元の乱が起きる。信西後白河天皇の後見として権力を持つ時代になった。保元3年(1158年)、後白河天皇二条天皇に譲位され、自らは院になられた。それより後は、後白河院派と二条天皇派の対立が始まる。「院の近習者をば内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるる間、上下おそれおののいてやすい心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ。」そんな折も折、二条天皇は、故近衛院の后、太皇太后宮があまりにお美しいのに惹かれて御艶書を送られる。大宮は先帝亡き後、九重の外、近衛河原の御所にひっそりと暮らしてをられたのだが、もうびっくり、まともにお返事などできない。「いまだ二代の后にたたせ給へる例を聞かず」と諸卿一同は反対するのだが、二条天皇は強引に后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。かうして涙のうちに大宮は二代の后となられた。この大宮の心の憂ひが平治の乱と結びついてゐるのである。今日までに平家物語「二代の后」を写し終へたので、メモとして書いた。

f:id:sveski:20200530050156j:plain

隣接する住宅エリアに通じる橋の上で。