ケーベル先生

2020-04-13 (月)(令和2年庚子)<旧暦 3 月 21 日> (大安 丙戌 八白土星) Artur Douglas Annandag påsk   第 16 週 第 25994 日

 

夏目漱石は、明治44年(1911年)7月、門下生の安倍能成と一緒に、ケーベル先生を駿河台のご自宅に尋ねた。久保勉も一緒だったのかもしれない。その時の様子が、「ケーベル先生」といふ日記風の文章に残ってゐる。漱石は先生に一人で淋しくはありませんかと聞いたら、先生は少しも淋しくはないと答へられた。西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねたら、夫程西洋が好いとも思はないが、日本には演奏会と芝居と図書館と画館がないのが困ると言はれた。一年位暇を貰って遊んで来てはどうですと促して見たら、それは好まない、私がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。決して二度とは帰って来ないと言はれた。僕には感動的な場面である。ケーベル先生が日本に来て、東大で哲学を東京音楽学校でピアノを教へ始めたのは1893年のことであった。1914年8月12日にいよいよ横浜から帰国することになり、港まで行ったのだが、第1次世界大戦の勃発で船の出航が見合はされた。横浜でそのまま過ごすことになって、1923年6月14日に亡くなった。関東大震災の3ヶ月前である。先生にセンチメンタルな望郷の思ひはなかったかもしれないが、僕にはこの話が切なくて、東京へ行った時にケーベル先生のお墓にお参りする事がある。日本と西洋を頻繁に行き来する僕をどんな目で見られてゐたかは分からない。後ろめたい気持ちはある。ただ、今回の様にコロナウイルスのせいで自宅に閉ぢこもることを余儀なくされる生活になると、ケーベル先生であったらその様な生活は少しも苦にならないであろうと、思ひだされるのである。

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薄雲が広がって寒い日であった。