川崎無差別殺生事件

2019-06-03 (月)(令和元年己亥)<旧暦 5 月 1 日>(大安 辛未 二黒土星新月 Ingemar Gudmar 第 23週 第 25680 日

 

令和といふ時代が始まったまだその月のあけないうちに、川崎無差別殺生事件が起きた。それから約1週間が過ぎた。殆どテロリストの登場と結果において変はりない悲惨な事件であった。事件の直後から様々な意見がネット上に飛び交ったが、僕には事件の本質が見えない。偶然に起きた事件である様に見えて、現代社会に起こるべくして起こった事件である様な気がする。犠牲になった人たちに、お気の毒に、と簡単に言へない気がする。現代に生きる全ての人があまねく受けるべき審判を身代はりになって受けてもらってしまった感じがあるからだ。読んだニュースの中に気になる記事があった。犯人はひきこもりで、誰とも口を利かない人間であったのに、その実行当日の朝だけは周囲の人に向かって「おはようございます」と自分から挨拶したといふのだ。根に感じやすい性質を持ってゐるのではないかと思った。その記事を読み終えた時、僕は涙ぐんでしまった。その男は、その51年の人生において、周囲の人から敬意の目で接してもらった経験がどれほどあったかなと思ふ。僕らは人を尊敬するといふと、すぐにえらい人や立派な人を思ひ浮かべてしまふが、全然立派でない人間同士でも、お互ひの人格を尊重し合ふ態度は大事と思ふ。現代にはその様な教育が欠如してゐる。その様な教育は学校よりもまづ家庭でなされなければならないと思ふ。誰からも無視され続けた人間が螺旋階段を落ちる様に流れ流れて行き着く先は恐ろしい。「一切衆生 悉有仏性」といふ言葉もある。ひきこもりの人間を「恐ろしい」と言って遠ざければ、事態はますます恐ろしい状況に至るのではないか。「悪い奴をやっつけろ」とか、「警戒の目を強化せよ」といった類の対応では問題は解決しないと思ふ。

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シャクナゲが満開になった。部屋の中からも見える。