大和路 - 藤原宮跡

2019-04-02 (火)(平成31 年己亥)<旧暦 2 月 27 日>(仏滅 己巳 九紫火星) Gudmund Ingemund 第 14週 第 25619 日

 

藤原定家が編んだとされる小倉百人一首の第1首は天智天皇、第2首は持統天皇である。以下、柿本人麻呂山部赤人と続く。この4人の歌人は今回の旅とも重なる気がする。天智天皇以降数代の系図を僕はこれまで何度眺めたかわからないが、若い時に勉強しなかったせいで、それを何度見ても頭に入らない。持統天皇はもと鸕野讃良皇女といふお名前で、天智天皇の息女であられた。天智天皇には大友皇子といふプリンスがあったのだが、弟の大海人皇子の方に力があった。当時は白村江の戦ひとか、朝鮮半島の問題もあって、日本には強力な指導者が必要であった。現代もまた別な形で朝鮮半島の問題がある。現代の皇室では、皇位継承権がきちんと定められてゐるけれども、当時はそれがなかったので、皇位をめぐって血で血を洗ふ戦ひになってしまった。鸕野讃良皇女は大海人皇子の妃になり、夫を支援する。大友皇子は敗れ、大海人皇子天武天皇として即位された。鸕野讃良皇女との間には草壁皇子があったが、天武天皇は別のお妃との間に生まれた大津皇子の才を愛された。やがて天武天皇崩御すると大津皇子には謀反の疑ひがかけられて処刑されてしまふ。鸕野讃良皇女はわが子草壁に皇位が巡って来たことを密かに喜んだものの、それも束の間のことで、草壁皇子も亡くなってしまふ。悲嘆にくれた鸕野讃良皇女は、自らが夫・天武天皇のあとを継いで、持統天皇として即位する。そして都は藤原京にうつされた。唐の都に倣った都として、それまでに類のない規模の都であった。その藤原宮跡にも僕たちは行ってみた。広大な地に畝傍、耳成、天香久山大和三山を見渡すことができ、遠くには二上山も見えた。まさに大和を感じる場所であった。「衣ほすてふ天の香久山」と詠まれた場所は、あるいは藤原宮であったかもしれない。ちなみに、草壁皇子には軽皇子といふ子息があったので、持統天皇は譲位されて、軽皇子文武天皇として即位された。藤原京持統天皇文武天皇の都であった。何年かの後、奈良の平城京へと遷都されることになる。それから何代かは天武系の天皇が続いたのであるが、次第に勢力を伸ばした藤原氏は刷新を企てたといふものか、天武系から天智系へと流れを変へて、光仁天皇の即位を押す。さらに桓武天皇が即位して、都も、長岡京平安京とうつり、世の中は平安時代を迎へることになる。

 

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藤原宮跡から見た天の香久山