公私混同

2018-12-25 (火)(平成 30 年戊戌)<旧暦 11 月 19 日>(大安 辛卯 一白水星)Juldagen 🇸🇪  第52週 第 25521 日

 

「公私のけじめをはっきりつける」これは美德には違ひないが、日本ではこの考へ方が真面目で強すぎるのではないかと思ふこともある。僕は日本で仕事をしてゐた頃、私用で会社の電話を使ふことは禁じられてゐた。当たり前と言へば当たり前である。今は誰もが自分のスマホを持ってゐるからちょっと想像できないかもしれないが、残業で帰りが遅くなり、家に「これから帰る」とひとこと伝言を入れることも私用電話とみなされた。それでリンが一回で切れたら「これから帰る」と言ふ合図、リンが二回で切れたら「今日は遅くなる」といふ合図、といふ風に暗号化して呼び出し音だけ鳴らすことにしたものだった。公私のけじめは随分しっかりつけたと思ふ。でも、こんな風にも思った。「公私のけじめをつけよ」といふなら、公のものに私を割り込ませてはいけないのと同様に、私のものに公を割り込ませてもいけない筈だと。ところが30年前においてさへ、自分の時間帯に仕事が割り込まれることはよくあった。公私混同禁止には両方向ある筈だが、管理職の人たちは常にその一方通行を求めたのだ。部下がそれに同調できるかどうかは、本人が如何に仕事への使命感に燃えてゐるかによるが、上司の人格によっても決まる。今は、メールなどの通信手段が発達したので、どこででも仕事ができる様になり、公私の区別がよりつけにくくなったのではないかと思ふ。働き方が次第に変はるとき、「公私のけじめをしっかりつける」考へ方は後退させるべきではないかとも思ふ。もっと自由に、公私のけじめは本人の良心に任せ、むしろ何をやっても良い、結果を出す、といふ雰囲気でなければ良い仕事はできない様な気もする。

 

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冬の雲の美しい縞模様