「何故だろう」と思ふこと

日 旧暦 7 月 16 日 仏滅 庚寅 四緑木星 満月 Östen V34 25400 日目

何事につけ、「何故だろう」と思ふことは大事なことと思ふ。でも、例へば「山のてっぺんを頂上といふ」といふ定義が示された後で、「何故山のてっぺんを頂上といふのだろう」と問ふてみてもあまり意味がない。高校の時の物理の時間に f = ma といふ公式を教はった。それを言葉で説明すれば「加速度の原因を力といふ」となる。これも力の定義を説明してゐるだけなので、なぜ、f = ma になるのかと言ってみても始まらない。りんごの実を枝から切り離すと、りんごの実はその位置に留まらずに下に向かって落ちて行く。それも最初はゆっくり、次第に速くなって落ちて行く。りんごの実にしてみれば加速度を感じたのであり、それは力を受けたからであると解釈する。物理学では力をその様に定義するので、日常会話で、「あの人は力がある」といふ時の「力」とは区別する。でも、万有引力の法則で、「二つの物体に働く力はその質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する」と言はれると、「何故だろう」と思ふ。高校時代の物理の先生は「物理学はどの様に力が作用するかを説明する学問であって、何故そんな力が作用するかには答へない」と言はれて(昔の話なので僕の記憶違ひかもしれない)ずっと気になってゐたのだが、アインシュタインによれば重力は空間の歪みによることで説明されてしまふことが後年わかった。何事につけても「何故だろう」と問ひを発した時、「それはさういふものであるから、それ以上は説明のしようがないだろう」と答へられてしまふと、そんなものかなと思ってしまふ。物理学には、「さういふものですよ」と押し付けられる原理が多すぎるのではないか。「何故光速度一定であるのか」「何故エントロピーは増大するのか」「何故宇宙は限りなく膨張するのか」「何故ミクロの世界では位置と運動量を正確に示すことができないのか」などなど。これらの原理は、バラバラに成り立つ様に見えるが、僕らにはわからない、より根源的なひとつの原理から導き出される様々な現象の側面に過ぎないことはないのかと時々思ふ。

 

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