格差はどこから来るかしら

火 旧暦 1 月 26 日 友引 甲辰 二黒土星 Greger V11 25235 日目

福沢諭吉は「学問のすすめ」で、世の人々は皆、平等な権利を持つことを説いた。しかし権利は平等であっても、世の中には、賢い人や愚かな人や金持ちの人や貧乏の人が、実際に居る。その昔から格差はあったといふことだ。ではその差はどこから来るかと言へば、学ぶ人と学ばない人との差だといふ。だから福沢は、人々がより良い生活をするために学問をせよとすすめた。この考へは今もその通りかもしれない。でも、功成り名遂げた人たちは、「オレは若い時努力したからうまく行った。誰だって努力しさへすればうまくいくのだ。低いレベルに甘んじてゐる奴らは、結局、だらしなかったり、やる気のない奴らではないか。悪いのは本人なのに社会が悪いといふのはをかしい。」と考へる傾向があるのではないかと思ふ。だが、実際に低迷する(と言って良いかどうか)人々にはそれなりの理由や状況がおそらくあるのであり、上の人たちが自分の価値観だけで単純に結論づけるのは非常に危険だと思ふ。そして人の心の根にその様な考へが潜む限り、社会の格差は永遠に無くならないとも思ふ。この様な実利主義が横行する一方で、例へば聖書の言葉には、「富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反って易し」といふ言葉もある。道元も「財おほければ必ずその志を失ふ」と言った。この広い世の中のどこかには高い志の人が居ると思ふ。何かを学ぶとはどういふことなのか、そもそも何を学ぶべきなのか、学ぶことはいつまで続けるべきなのか、などについても人によって考へはそれぞれだと思ふ。格差社会の問題の根源はどこまでが社会にあり、どこまでが個人にあるのか、利益を搾取する悪い人間が本当にゐるのか、僕は今でも考へあぐねてゐる。