中野信子著 サイコパス

土 旧暦 閏5月22日 友引 癸卯 六白金星 Ragnhild Ragnvald V28 24994 日目

中野信子著の「サイコパス」(文春新書)を読んだ。かねて新聞広告などを見て、読んでみようかと思ってゐた一冊である。僕らは普段から人の痛みが分かる人間になりたいと心のどこかに思ふし、社会が良くなるためにはその様な人間が多い方が良いに決まってると思ってゐた。さらには、自分がそれを良いことと思ふ以上、他の人だって、その様に感じるのは当たり前だらうくらいに思ってゐた。ところがである、世の中には、残虐な殺人を平然と犯して反省することのない人間や、生意気で傲慢で人の気持ちを知らうとしない人間もあって、それが結構の割合で一般市民の中に混ざってゐるらしい。変な事件の頻発する昨今を思へば、なるほどと頷ける一面もある。だが一方で、彼らは社会の敵である様に見えて、その様な性格は、実は人類の存続のために必要な場合もあったかしれないといふ。この本を読んで得た実利の一つは、人にはそれぞれ性格があり、こちらが思ったことと同じ価値観で相手も分かってくれるだらうと最初から当然のことの様に期待してはいけないといふことである。相手はどんな人間か分からない、常にそれをチラリと思ひ浮かべることの大事さを感じた。その様な性格はまた、遺伝によるところも大きいと言ふ。では、潜在的にその様な遺伝子を持って生まれながらも、幼少から厳しい躾を課せられることによって普通の人と同じ価値観を育まれて生きてきた人間が居たとして、この本を読んだことがきっかけになって、潜在的な自分の血に気づき、性格を変へていく心配はないだらうか。逆を言へば、放っておけばどうなるか分からない、生まれながらに持ち合はせた自分の血を、幼少の時から自覚して、社会の中でみんなと仲良く生きていくために、一人ひとりに固有な教育プログラムが用意されなければならないのではないか、といふことも思った。さらには、サイコパスはずっと昔から一定の割合で市民の中に居た筈だが、近年になって顕在化した様に見えることの背景には、教育の質の変化が起因することもありはしないかとも思った。