定年後の日常生活

日 旧暦 7月26日 友引 壬午 三碧木星 Fatima Leila V34 24662 日目

定年で会社を辞めてから2年半が過ぎた。これまで「身の周りの整理」を第一目標としてやってきて、これはそれなりにできて来たと思ふが、まだ、身の周りに整理の余地はたくさん残ってゐて、これからも不断の作業は続く。定年後の僕の人生は、日記をつける、ブログを書く、出納簿をつける、などの行動や消費生活の記録と、健康管理、瞑想、掃除、身の周りのことをするだけで日常が過ぎてしまふ。生産的なことは何もない。普通の人なら就寝前のわづかな時間に済ませられることを一日かけてやってる感じがある。そこに焦りがないではない。能率は悪いがそれでも結構楽しい生活だからこれはこれで良しとせねばなるまい。「仕事の現場を離れたところから世の中の動きを眺めたい」といふ気持ちもある。それでネット上でなるべく新聞を読む様にしてゐる。そんな気持ちで居れば、そのうちにもっと自分のやるべきことも見えて来るかもしれないといふ淡い期待もあるのだが、老年なりにアンビションをやしなふ気持ちがなければそんな時期は来ないとも思ふ。そんな覚悟が僕にあるだろうか。新聞を読んで世の中の変化を追ひかけるともうそれだけでアップアップする。いまの時代はそれだけ変化が速いのだ。何かモノとして残るものに仮にお金を使っても、すぐに新しい技術の登場で、陳腐なものになってしまふ事もありうる。例へば自動車を買ふ人は、もはやガソリン車は買はないかもしれないが、ハイブリッド車が良いのか、燃料電池車が良いのか、テスラの様な電気自動車が良いのか(たくさんの新興会社が電気自動車の開発に挑んで消えていった中でテスラだけは生き残った)、自動運転はどのレベルのものが良いのか、いつまで待てば手頃な価格になるのか、あるひは、自分で買ふのではなくて、シェアする方法もあるぞとか、技術の進歩は、消費者に多様な選択肢を提供する。これらの選択肢は、バランスよく競合するのか、どれかが一方的に勝つのかも、今の僕には予想ができない。電気自動車が優勢になったとして、果たしてその電気はどこでどの様に生産されるのだろうかとも思ふ。自動車の例だけでなく、人工知能の発達はこれから短い間に僕らの日常の暮らしを変へてしまふだろう。もし自分がいま若者であったなら、これからどんな職業に就くことを希望するかなと思ってみることがないでもない。