給与はどこから来るかしら

土 旧暦 3月24日 友引 壬午 四緑木星 下弦 Mariana Konungens födelsedag Valborgsmässoafton V17 24542 日目

「お給料を頂いて仕事をするのだから、最低この程度のことはやらなければならない」といふ考へ方が正しいのかどうか僕にはわからないが、若い時の僕はその様に考へてゐたと思ふ。では逆に、もしも給料を貰はないのなら仕事を雑にしても良いのだろうか?或ひは「僕の給料は安いのだから仕事の質は低くても構はない」と考へて良いのだろうか?「給料の多少に拘らず、この仕事に僕は自分の持つ力の全てを投入したい」といふ考へ方も当然ありうると思ふ。スウェーデンに渡ってからはまた別の見方もする様になった。「仕事をして、その報酬としてお給料を頂くが、これは、神様仏様が、僕と家族とを養ってくれるために、給料といふ形をとって与へられるものである」と。この考へ方は定年退職して年金をいただく様になると、さらに強くなった。僕が退職後やってゐることは単に身の回りの整理に過ぎないのであるが、それはどれだけやったら報酬がなんぼといふ性質のものではない。けれども心を込めて何かをするといふ点においては、まるで仕事をしてゐた時の様な心持ちが心のどこかにあることも確かである。お掃除、草取り、アイロンかけ。どれも単純作業だが、単純作業には不思議に心を落ち着かせる作用がある。もしビジネスとしてそれらの作業をやるなら、感じが全然変はってくる。報酬として数字には出ないが、しかし確かに一つの生産に違ひないことってあると思ふ。家事とは元来その様なものではないだろうか。同一労働同一賃金といふスローガンの陰には、労働の価値は必ず数値化されるといふ思ひ込みがあると思ふ。しかし、現実には数値に現れない価値ある労働もあるから、あのスローガンは掛け声に終はるだろうと僕は思ふ。人工知能の発達によって、将来、人のする仕事がなくなるのではないかと心配する声も聞く。でも僕は人が「心を込めて何かをする」ことの喜びを忘れなければ、きっとそんなに心配することではないのではないかとも思ふのだが。