芥川龍之介とカラマーゾフ

金 旧暦 11月19日 大安 乙酉 四緑木星 Gunnar Gunder V2 24076日目

佐藤優文藝春秋1月号の「ベストセラーで読む日本の近現代史」で芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について書いてゐた。それはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に出てくる「一本の葱」の飜案であると言ふ。その結論のところで、「ドストエフスキーが因果応報を越える罪人を救う神の愛を伝えるための小道具として「一本の葱」という物語を挿入したのに対して、芥川はそれを因果応報によって断罪される罪人の物語に翻案したのである」と書かれてゐた。小さい頃から僕は因果応報の恐ろしさを周囲から説教されて育った。高校時代にキリスト教の知識を少し得た時、「前世も過去も問はない、あなたは救はれる」と言はれて、重い因果応報からの離脱を解かれた様で明るい感じがした。ヨーロッパが眩しく見えた。でも、後年になって自分で聖書を読んでみると、例へば、「汚れた霊が戻って来る話(マタイ12)」とか、「十人のおとめの例(マタイ25)」とか、結構厳しい話もあって、キリスト教では神様は僕が思ったほど無制限には罪人を救ってくれないのではないかと、やや衝撃を受けた記憶もある。今の年齢になってみると、すべての偶然にはきっと意味があるのだらうと思ふ。そして、自分の身の上に過酷な運命が待ってゐるとしても、それもまた過去の己の過ちに対する、毫も違はざる報ひによるものであると覚悟して自分を納得させることで、心の平安が得られる様な気がする。その意味では僕はカラマーゾフよりも芥川の説話の方が性に合ってゐる気がする。