死後の世界

土 旧暦 8月20日 先負 丁亥 七赤金星 Sture V37 23957日目

文藝春秋の巻頭を飾るエッセイを今は立花隆が執筆してゐる。10月号は「死後の世界」と題した記事が掲載されてゐた。NHKスペシャルの「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」のナレーションを著者自身が担当してゐると書いてあった。その番組は明日の日曜日に放映される様である。立花隆の「臨死体験」は文庫本でも出てゐて、随分前に僕も読んだことがあるが、新しいNHKスペシャルではそれをさらに一歩進めた内容になってゐるらしいので、その番組は僕も見てみたいと思ふ。僕らの誰もが認識するこの世界は、デカルトが提唱した様な物理世界ではなくて、もっと霊的な現象世界であると言ふ考へもあるとのことである。世の中の不思議な現象を科学的に研究することは大変興味深いことであるけれども、果たしてそんなことに答へが出るのだらうかと言ふ気もする。だが、さう考へるとそこで進歩が止まるよと叱られるかもしれない。けれども、僕はやはり人間には永遠に分からないことがあっても良いのではないかと思ふ。この記事の中で立花隆氏は矢作直樹氏が書いた「おかげさまで生きる」と言ふ本に辛辣な一撃を投げかけてゐた。僕はその本を読んでゐないから、コメントを避けるべきとは思ふが、何もあそこまで舌鋒鋭く批判しなくても良いのではないかとも思ったことだった。内容的にはレベルの低い本かも知れないし、なりふり構はずそれを売りまくる方針は全く顰蹙ものかも知れないが、仮にさうであったとしても、人々がそれにアクセスした、と言ふ事実だけは残る。一般大衆にとっては高邁な哲理を聞かされるより、念仏を唱へるだけでよろしい、と言はれた方が救はれる場合もある。生命現象の科学的な解明が進んでも、それが人の心を平安にすることに寄与出来なければ何のための進歩か分からない。むしろ、東大医学部附属病院救急部・集中治療部長と言ふ、まぶしい肩書きを持つ科学の権威さへもが、結局はその様な単純なことに行き着いてしまふことに人々は共感するのかも分からないとも思ったことだった。