語学を鍛えること

土 旧暦 11月24日 仏滅 辛未 八白土星 下弦 小寒 Hanna Hannele V1 23342日目

何語で書かれている文章であれ、その文章を読み解くには二つのレベルがあると思う。僕はそれを勝手に言語レベルと内容レベルと呼ぶことにしている。言語レベルというのは表面的な文字列である。内容レベルというのは頭の中に浮かぶイメージである。優れた文学作品を読むと、その語られる情景がまるで目に浮かぶように現れることがある。そこでは紙に印刷された文字列が頭の中に浮かぶイメージに転換されている。この転換を可能ならしめる能力が即ち僕の言う語学力である。文字列が日本語であろうが英語であろうが、それはあまり語学力とは関係ない。何語で書かれているかはさておいて、言語レベルと内容レベルとを自由に行き来できる能力が即ち語学力だと思う。音楽家などは多分、譜面を眺めているだけで頭の中でCDがなり始めるのであろう。それも広い意味では語学力である。音楽家達がほぼ例外なく外国語に強いのも決して偶然ではない。これからは誰もが語学力を鍛えなければならない時代であると思う。そういう力を鍛える訓練を実は皆小学生の時に受けている。先生から「自分の言葉で言ってごらん」とよく言われた。これこそまさに、内容レベルを言語レベルに転換する練習であった。人はまず母国語を言語レベルとした語学力をしっかり磨いてからしかる後に外国語を言語レベルとした語学力の修得に移るべきである。普通の人が幼少の頃からこの順序を間違えて教育されると人格形成が中途半端になって危険なのである。和文英訳とか英文和訳とかをする時に、二つの言語をその言語レベルだけで翻訳することはできないものである。しかし、世の中ではそのことが良く自覚されていないのではないかと思われることがある。語学力が無いくせにこんなことを書くのも恥ずかしいのだが、僕でも仕事上和文英訳をすることもあるし英文和訳をすることもある。どちらがやりやすいですかと聞かれたら、躊躇わずに和文英訳の方がやりやすいです、と答える。和文の言語レベルから内容レベルに転換することはほぼ瞬時にできる。こんどはその内容レベルをどのように英語で表現するかだけのところまで一気に進めることができるからだ。これに対して、英文和訳の場合は、英文の言語レベルから内容レベルに達するのにひとつ苦労があり、今度はその内容レベルをどのように和文で表現するかと言うところで次の苦労がある。それで和文英訳の方が楽なのである。普通の日本人なら誰でもそうじゃないかと思う。逐語訳的に単語ごとにこれは英語でどういうのかなと調べる作業はそれだけではあまり語学力の向上に寄与しない。語学力があるレベルに達しているかどうかを評価する指標がある。それはその言語だけを使って言語レベルと内容レベルを行き来できるかどうかということだ。高校時代に開拓社の英英辞典を初めて使った思い出がある。字引を引いても言葉の意味が分かったようで分からないから今度は同じ単語を英和辞典で引いてみて初めて落着いた気分になった。今ではまず英和辞典を引くことは無いが、たまに英和辞典で言葉を調べることがあっても、もう一度英英辞典を引いて用例などを確かめないことには気分が落着かない。高校時代と逆になっちゃったなと思う。僕は今でも使いこなせる語彙は乏しくて恥ずかしい限りなのであるが、でもその乏しい語彙だけを使って、英和辞典も和英辞典も無い世界で必要最小限の用足しができることがささやかな喜びである。そうは言ってもスウェーデンのような英語を母国語としないところにいるから何とかなっているのであって、もしもアメリカなどに住むならば今の僕の英語力では全然駄目なことを僕は密かに知っている。スウェーデンに移り住んで長いが、恥ずかしいことに僕はスウェーデン語だけで言語レベルと内容レベルを行き来できない。いつもそこに英語を介入させている。英語とスウェーデン語とは言語レベル同士だけでの対応が取りやすいからだ。Google translate などもこの二つの言語の間ではかなり強力な武器である。自分でスウェーデン語で作文をしてみてそれを機械上で英語に訳させてみる。すると何を言いたいのか分からない英文が現れるので、もとの文章の手直しをする。それを何度も繰り返して自分の言いたいことが英語で出てくるようになるまでやってみる。これはかなり有効なスウェーデン語の勉強法ではないかと思うが、機械に訳させる相手言語を日本語にすると英語の場合のようにはうまくいかない。言語レベルが日本語であればお前の語学力は大丈夫かいと自分に問うてみることもある。実はこれも怪しくて、そこに古文や漢文が入ってくるとたちまち自信がなくなってしまう。生きている限り、語学を鍛える作業は終わりのない旅である。そんなに苦労してどうするの、という考え方もあるかもしれないが、その後にきっと得られるであろう喜びはまた格別のものではないかと思う。