田辺聖子の「小倉百人一首」

月 旧暦 7月10日 仏滅 庚申 七赤金星 Rolf Raoul V35 23211日目

腰の痛みに耐えかねて先週の後半はベッドに寝込んでいたが、今日は少し良いようであるので頑張って会社へ出た。市民用の診療所(Vårdcentralen)とは別に職場関係の健康相談所があって、先週予約しておいたので、そこで診てもらうこともできた。マッサージなどの手当てもしてもらって気分的にも少し落ち着いた。週末の寝ている間は悶々としていたが、その間に田辺聖子の「小倉百人一首」を読んだ。ずっと昔に日本で買った本であるがこれまで全然目を通すことがなかった。ヘーッ、そうだったのか、と自分の知らないことがたくさん出ていて随分ためになった。それぞれの和歌の現代語訳も美しいので繰り返し読んだ。そしてそんなことより何より全体が面白い読み物に仕上げてあるのが楽しかった。江戸時代に「百人一首一夕話」という本が出版されている。それは今でも岩波文庫にあるが、内容は作者をめぐる滑稽話や歌の簡単な解釈からなり、当時としては随分版を重ねた人気の本であったらしい。だが、この本は僕らにはすでに古典である。その点、田辺聖子の「小倉百人一首」はまさに現代日本語による「百人一首一夕話」であると思う。どれくらい版を重ねているだろう。国民必読の書と思う。僕は百人一首を高校1年の冬休みに覚えさせられたが、戦前はたいていの小学生が覚えていたという。テレビもゲームも無かった時代、古典に近づくための基礎的な知識が、普通の家庭の雰囲気の中から知らず知らずのうちに身に付くようにできていたのであろうと思う。その辺の風習が一般に失われている現代を僕は寂しく思う。そんなことを思うと、僕は何故、娘の小さかった頃にもう少しその道を開いてやらなかったのだろうという気もしないではない。しかし好色の親であるだけに、わが子に恋の歌を率先して教えるというのもなんだかきまりが悪かったのである。僕は25歳頃になって初めて古典を懐かしいと思うような不思議な気持ちに包まれたことを覚えている。外国で育ってしまった娘にはそのような感慨が訪れることは無いのかもしれない。