交野の春の桜狩

木 旧暦 6月29日 仏滅 己酉 九紫火星 Brynolf Surströmingspremiär V33 23200日目

現在の大阪府枚方市の一帯は古くは交野とよばれていた。今の交野市よりもその範囲は広かったようである。文徳天皇(在位850-858)には第一皇子惟喬親王があり、また第四皇子に惟仁親王があった。皇位継承の順で行けば惟喬親王が次期天皇におなりになるべきところであったが、弟の惟仁親王が皇太子にたてられた。惟喬親王のお母上は更衣紀静子であった。名族とはいえ、紀氏は衰退しつつあった。これに対し、勢いにのる太政大臣藤原良房は娘明子を女御にいれた。明子の生んだ皇子が惟仁親王であり、生まれるとすぐに立太子となった。そうしてこの皇子がやがて清和天皇になられたのである。惟喬親王は不遇な境遇を送られることになったが、そのお伴には在原業平が控えていた。ある日この主従は渚の院で桜を鑑賞し、業平は

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

と詠んだ。伊勢物語82段。渚の院とは淀川ベリにあり、京阪電鉄御殿山駅に近い辺りにある。その一帯は水無瀬ともよばれるが、新幹線と阪急京都線が山崎付近で並行して走るあたりにも近い。この歌が世に出てからは「交野の春の桜狩」といえば、人々はすぐにこの不遇の主従を思い浮かべることになった。そうして新古今の時代になると、この歌物語を下敷きにして、藤原俊成

又や見む交野のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの

と詠んだ。大納言伴善男が失脚し、大伴氏、紀氏の勢力が宮中から去ることになった応天門の変がおきたのは「世の中に」の歌の時代と重なるころと思う。古今集ではこの歌の直前に明子の父太政大臣藤原良房の作がのせられている。

とし経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし

娘明子のときめく姿に、みずからの老いの嘆きなど何でもないと言っているのである。これらはいずれも数百年来人口に膾炙したうたばかりであるが、それらの歌を通じて昔の日本のことを思ってみることは楽しいと思った。今日のブログは筑摩書房日本詩人選6「在原業平小野小町」(目崎徳衛著)、新潮社「新古今和歌集一夕話」(百目鬼恭三郎著)をパラパラと読んでいて、それらからの引用で書いた。