「救急医療を自宅で」といふ試み

2021-02-22 (月)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 11 日> (大安 辛丑 二黒土星) Pia  第 8 週 第 26309 日

 

今日の地方紙 Södermanlands Nyheter には、「救急医療を自宅で」といふテーマの記事があったので、ちょっと気になって読んでみた。病院は高齢者にとって必ずしも良い環境とは言へない場合がある。むしろ却って危険な場合もありうる。病院に行ったことで感染症にかかるリスクもあり、認知障害のある人にとっては馴染みのない環境は負担になることもある。高齢の患者はできるだけ自宅に居たいと思ふことが多い。また、医療専門家は患者を訪問した時に、患者の状況をより正確に把握できることもあるといふ。もちろん、入院が必要な場合もあるが、「高齢者を不必要に入院させない」といふ基本的考へのもとに新しい老人救急医療チームが発足しようとしてゐる。そのチームはアルマといふ名で呼ばれる。医師、看護師、栄養士からなる緊急チームである。従来の在宅医療などからアルマチームに緊急出動の要請がかかることになる。もしくは救急車が呼ばれたとき、救急車のスタッフはアルマチームにまづ連絡する。すると自宅で支援を受けることができるかどうかが迅速に判断される。この様なことが可能であるためには患者は最大2週間アルマチームに登録されてゐなければならないといふ。その様な役割を担ったアルマチームが、Nyköping で4月12日から発足すると書かれてあった。感染症の流行で救急治療室はかなりの待ち状態にあるとも書いてあった。医療崩壊は防がなければならない。見方によっては、病院の負担を軽くするための苦肉の策の様にも感じられる。どの様な医療体制がベストなのか。ベストな方法を模索して、医療関係の人たちも日夜大変でおありだろうと思ふ。ただ、状況によっては、結局は手遅れになってしまふ場合もあるかもしれないと、記事を読んで思った。

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町へ行った。靄のかかったNyköping 川。

 

「万葉百歌 こころの旅」を読む

2021-02-21 (日)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 10 日> (仏滅 庚子 一白水星) Hilding  第 7 週 第 26308 日

 

日本のさる方から郵便が届いて、開けてみると本が1冊入ってゐた。松本章男著「万葉百歌 こころの旅」(集英社新書)といふ本であった。ちょっと読み始めてみたが、興味深い。単に文学的な歌の解釈を超えて、歌が生まれた背景が説明されてあったりする。時には歴史年表や、時には古代天皇家系図や、時には地図帳などを引っ張り出しながら読むとより分かりやすい気がする。僕はその辺の知識が随分弱いので勉強になる。ずっとスウェーデンに居て、コロナでなかなか日本に行くことができないものだから、日本の古典文学は、本当に心にしみてくるものがある。飛鳥地方へは何度か行ったことがあるが、自分のブログを検索してみると、一番最近に行ったのは、2019年3月であった。その時の旅を思ひ出しながらこの本をゆっくり読んでみたいと思ふ。「また行きたい」と思ふ気持ちが強くなるかもしれないけれども。

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けふは長靴底につけたスパイクを外して散歩することができた

 

平家物語「烽火之沙汰 2」

2021-02-20 (土)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 9 日> (先負 己亥 九紫火星)上弦 Vivianne  第 7 週 第 26307 日

 

太政入道(清盛)が一番頼りにしてゐた内府(重盛)はこんなことを言ひ出したものだから、清盛は力を落として、「いやいや、そなたがそこまで思ひつめてをるとは思ひもよらなかった。悪党どもが言ふことに後白河法皇がお付きになってしまって、間違ったことがこれから起きるのではないかと心配したまでのことよ」と言った。重盛は「たといどんな間違ったことが起きたとしても、法皇のご身辺だけは何よりもお守り申し上げなければなりません。」と言って、無造作に立ち上がり、中門に出て、侍どもに向かって話し始めた。「ただいま重盛が申したことを皆も聞いたであろう。今朝からこの西八条に来てゐる。もっとここに留まって、引き続き申したい気持ちもあるが、それではあまりにも甚だしく騒いでゐる様に見えてしまふので、私はこれにて帰ることにする。父・清盛のお供をして院に攻めて行かうと思ふものがあれば、それは重盛の首が刎ねられてからにせよ。それから後なら行っても良いぞ。」と言って小松殿へ帰って行った。

重盛はさらに主馬判官盛國をよんで、「重盛こそは天下の大事を特に聞き出したものである。「我を我と思はず、我が命をかけてかまはぬと思ふ者共は皆、いくさの用意をして急ぎ参れ」と披露せよ」と命令した。盛國は言はれた通りに皆に向かって檄を飛ばした。重盛は並大抵のことでは周囲を騒がせる様な人でないことを皆知ってゐる。その重盛がこれだけの召集命令を出すからには余程のことであるに違ひないとばかりに、誰もが武具を身につけて我も我もと小松殿に駆け寄った。平安京周辺の各地、淀・はづかし・宇治・岡の屋、日野・勧修寺・醍醐・小黒栖、梅津・桂・大原・しづ原、せれうの里に散らばってゐたつはものどもは、あるいは鎧を着てまだ甲をつけてないものがあり、あるいは矢を背負ってまだ弓を持ってないものがある。馬の片方のあぶみに足をかけるかかけないかのままで、あはて騒いで馳せよった。

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森の中の雪も融けつつある。

 

午前と午後

2021-02-19 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 8 日> (友引 戊戌

 八白土星) Gabriella Ella  第 7 週 第 26306 日

 

日本では昔から、太陽が南中する時間帯を「午の刻」と言った。ちょうど12時を正午と言ひ、それまでの時間は正午より前なので午前、後の時間は正午の後なので午後といふ。分かりやすい。英語では in the morning とか in the afternoon とかいふが、時刻に続いて AM, PM と記される。AM は Ante meridiem の略で Before noon の意味、PM は Post meridiem の略で After noon の意味。AM, PM は万国共通だと思ふ。ここまでは食事とは関係ない様に思はれる。これがスウェーデン語になると、午前は förmiddag 午後は eftermiddag となる。ここで middag は英語で言へば  dinner といふこと。その日の dinner の前が午前で、後が午後といふことになる。dinner といふと夕食を思ひがちだが、その日の一番大きな食事も意味するらしい。スウェーデンでは昔からお昼の食事が一日のうちで一番大きかったのかもしれない。今もそんな感じを受けることがある。実は僕は HAPA 英会話といふネット上の英語講座から毎日無料で送られて来るメールマガジンを毎日の様に見る。それも少し丁寧に見て、英語の言ひ回しなどを勉強する。本気になって毎日繰り返しやればとてもためになる。毎日ここまで無料で勉強させてもらふのが申し訳ないと思ふ。が、老齢の僕にはこれ以上の勉強は無理なのだ。今日のスキットの中に、dinner は夕食ばかりではなく、その日の一番大きな食事を意味することもあるといふ風な会話が出て来た。ああ、スウェーデン語がまさにさうであるなと納得した。それでちょっとそのことを書いた。

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もやがかかった様な天気であったが、気温はプラスに転じて雪が随分とけた。

 

スウェーデンでは第3波が始まったか

2021-02-18 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 7 日> (先勝 丁酉

 七赤金星)雨水 Frida Fritiof  第 7 週 第 26305 日

 

新型コロナウイルスは日本ではこのところ収拾にむかふ動きを見せてゐる様に見受けられる。まだまだ大変ではあるが、それでもやや安心かなと思ふ。その反面でスウェーデンでは第3波が始まったかと思はれるほど今週は勢ひが盛んで、どうにも心配である。今日までの感染者数は 627022人である。感染者は大都市に集中してゐるが、僕が住む Södermanland でも増加傾向は著しく、先週に比べ27%増加した。英国型や南アフリカ型の変異ウイルスも少ないとは言ひながら確認されてゐる。スウェーデンにはスポーツローブと言って、今の時期にスポーツのための冬休みがある。僕らの地域は来週がそれに当たってゐる。それも休みにあまり出かけないようにと、自粛を求められてゐる。

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今日はもう雨水。コロナのせいか、春の喜びがどこか遠い。

 

洗濯機

2021-02-17 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 6 日> (赤口 丙申 六白金星)Alexandra Sandra  第 7 週 第 26304 日

 

我が家の狭い浴室には洗濯機が置いてある。普段の洗濯はこれで済ますのだが、シーツなどの大物は別の建屋にある共同の洗濯室でやる。共同洗濯室は完全予約制で、午前、午後、夜のいづれかの時間帯を予約して洗濯する。予定などない毎日だが、たまに予定があるとすれば、この洗濯の予約である。と、まるで自分がやるみたいに書いたが、これは全て、同居人がやることである。僕は、洗濯機のつまみをどこに合はせて起動ボタンを押すのかさへも知らずにゐる。乾燥機の他に大きな乾燥室があるので、そこへ洗濯物をぶら下げて熱風に当てておけば速く乾く。雨の日などは乾いた洗濯物を運ぶのにちょっと苦労をする。洗濯機の使ひ方で思ひ出したが、幼少の頃から我が家は「贅沢はいけない」といふ雰囲気であった。僕が高校を卒業する頃は、どの家にも電気洗濯機がある時代であったが、我が家にはなかった。大学に進学して寮生活に入る時に、洗濯機の使ひ方を知らないと恥をかくかもしれないと思って、故郷を離れる前に、いとこの家へ行って使ひ方を教はった記憶がある。仕事をしてゐた頃は長期出張でよく日本へ行ったが、そんな時は、折りたたみの小型の物干しを持参して、肌着などは割と頻繁に手洗ひした。でも、家に戻ると手洗ひで洗濯する気にはなれなかった。洗濯機はやはり必需品だと思ふ。

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新たな積雪は少ないが、雪はなかなかとけない。

 

祈るといふこと

2021-02-16 (火)(令和3年辛丑)<旧暦 1 月 5 日> (大安 乙未 五黄土星) Fettisdagen Julia Julius  第 7 週 第 26303 日

 

メールの末尾などに「あなたのご健康をお祈りします」みたいなことを、僕も時々書いてしまふ。気持ちに偽りがあるわけではないが、この「祈る」といふ言葉はあまり気軽に使ってはいけないのではないか、といふことを、その都度、併せて思ふ。岩波古語辞典には「いのり ー イはイミ(斎・忌)・イグシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意。ノリはノリ(法)・ノリ(告)などと同根。みだりに口にすべきでないことばを口に出す意」と書いてある。それにしては僕らの日常では「合格を祈る」とか、「商売繁盛を祈る」とか、皆、結構気軽に使ってゐる様に思ふ。春日局は大病の家光の命を助けてもらふために自分の薬を絶って祈ったといふ。平重盛は忠と孝のはざまで命をかけて祈った。この様に、「我が身はどうなっても良い」といふ覚悟で何かを願ふ場合に「祈り」といふ言葉は用ゐられるので、僕らの日常生活にあまり汎用してはいけないのだと思ふ。ならば、どの様に言へば良いのか。なかなかうまい表現が見つからない。何も犠牲にしないで何かをお願ひすること自体、虫が良すぎるのかな。境内のお賽銭箱はそのためにあるのかな。英語では Best wishes とか言ふが、そこには我が身に代へてでも、と言ふ様な大袈裟な余韻がなくて良いなと思ふ。菅原道真は「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ」と歌った。なるほどと思ふ。

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今日はその日であるので、フィーカの時間に Minisemla を食べた。ミニでも血糖値をあげたかもしれない